“麓”の成り立ちと「中世山城」の特徴
鹿児島県には、江戸時代以前に、シラス台地の山を削ってつくられた「山城」とよばれる城の跡が数多く残っていました。薩摩藩はその近くに、麓とよばれる集落をつくり、武士たちを住まわせました。鹿児島城下に住んだ武士は、「城下武士」、麓(外城)に住んだ武士は「郷士」とよばれました。江戸時代末の薩摩藩の領内には120カ所もの麓があったといいます。
“麓”での薩摩武士の暮らしについて
江戸時代の薩摩藩は、他藩に比べて武士の人数が多く、藩の4分の1が武士でした。そのため、本城である鹿児島城の近くにすべての武士を住まわせるのではなく、領地の中を小さく分け、武士を分散させて住まわせる独自の体制(外城制度)がとられていました。関ケ原の戦いに敗れた薩摩藩は、幕府や他藩への警戒心が強くなりました。平和な江戸時代、幕府や他藩の武士たちが武芸をおろそかにする一方で、薩摩藩の武士たちは日々、武芸に磨きをかけ、軍事力を強化していました。
薩摩武士が好んださつまあげと芋焼酎
江戸時代の薩摩藩士が食べていた独特なものに「焼酎」と「薩摩揚」がありますが、いずれも海外の影響を受けたものです。1540年代のポルトガル人の記録にすでに登場する焼酎は、江戸時代に薩摩芋が入り、芋焼酎が誕生します。蒸留酒製造の技術は海外から入ってきたものであり、これを日本酒のように湯や水で割るのは日本と海外の文化の融合といえます。「薩摩揚」も海外の影響を受けたものです。「つけ揚げ」の異名は、中国南部の「チキアーゲー」からくるものと考えられます。