1600年の関ケ原の戦いで徳川家康が天下を取ると、江戸幕府は一藩には一つの城のみを認める「一国一城令」を発布しました。これに対して、薩摩藩初代藩主の島津家久は、自らの居城となる鹿児島城(鶴丸城)を築き、ここを本城とし、各地に点在する麓を外城として、薩摩藩全体を防衛するための拠点として武家屋敷群を整備していきました。
薩摩藩独自の“外城制度”が
生まれた歴史的背景とは
中世以来の守護大名であり、戦国時代末には九州全土を平定する勢いだった薩摩の島津氏は、豊臣秀吉の九州平定で敗れ、領地を大幅に削減されましたが、武士の数は減らしませんでした。このため、薩摩藩は他の藩より武士の割合が高くなり、全人口の4分の1程度を武士が占めていました。そこで、他の藩のように、本城である鹿児島城の城下に全ての武士を集住させることができず、独自の外城制度として、各地の山城の周辺に麓(武家屋敷群)をつくり、数十人から時には数千人を配置することにしました。こうして、各地に武士団の集住地が存在する、薩摩藩独自の制度が生まれたのです。
藩内各地に整備された最大120もの“麓”
麓は、シラス台地の端にある山城跡と近くを流れる川に挟まれた、防御に適した場所に多く作られ、その数は、江戸時代末の薩摩藩領内には120カ所もありました。麓の中心には、「仮屋(かりや)」と呼ばれた役所や、私領の場合は領主の屋敷がありました。その周囲を「馬場」と呼ばれる何本かの広い道と、人が歩ける程度の狭い道とで町割され、その間に武家屋敷がそれぞれ隣接するように配置されました。